タイムマシーンに乗って、古き良き日本から最先端の日本まで、一緒に旅してみませんか?
【スポット編】 かつて訪れた場所、いつか行きたいあんな場所・・・。
【文化編】 昔ながらのニッポンの風習、そして今流行っているこんなこと・・・。
【グルメ編】 懐かしい味から食べたことのないあんなものまで・・・。
【テクノロジー編】 驚くべき日本の先端技術!日々めまぐるしく進化を続ける。
etc.
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タイムマシーンに乗って、古き良き日本から最先端の日本まで、一緒に旅してみませんか?
【スポット編】 かつて訪れた場所、いつか行きたいあんな場所・・・。
【文化編】 昔ながらのニッポンの風習、そして今流行っているこんなこと・・・。
【グルメ編】 懐かしい味から食べたことのないあんなものまで・・・。
【テクノロジー編】 驚くべき日本の先端技術!日々めまぐるしく進化を続ける。
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成田からニューヨークまで約13時間、ニューヨークからサンパウロまで約9時間、乗り継ぎの時間を入れると約25時間――この8月に地球の裏側の国ブラジルへ行ってきました。ブラジルはまさに多民族国家。ジーコ、ラモス、ロナウジーニョなど有名サッカー選手を思い出しただけでも様々な人種の顔が浮かびます。多民族の中にはもちろん日系人も含まれます。今年はちょうどブラジル移民100周年。今回はこの旅を通じて出会った日系ブラジル人の方々のお話をしたいと思います。
現在日系人は4世、5世も誕生し、ほとんど日本語を話せない人もいます。日本人街(リベルダーデ)の日本料理屋でバイトしていた日系人キクチくんも日本語はメニューの料理名くらいしかわかりませんでした。
サンパウロでショッピングに付き合ってくれた3世のマルシアさんは父親の仕事の関係で中高時代日本に住んだ経験があり、その時日本語をマスターしたそうです。公立中学校では日本人の顔をした日本語を話せない転校生のマルシアさんは、同級生のいじめの対象でした。「けっこうつらかったです」と笑いながら語るマルシアさん。それに耐えられたのは「家族が一緒だったから」ときっぱり。日本語が流ちょうになった高校時代には学校生活はとても楽しく、「ブラジルに帰るのが嫌だった」そうです。「お互いを理解するにはやはり言葉は大切だと思います」と真剣な表情で話してくれました。
同じく日系3世のカルロスさんも大学時代日本への留学経験があり、日本語、英語、ポルトガル語の3か国語を話し、日系人の中でも将来を嘱望されているエリートです。現在日系企業に勤める彼は、日本人スタッフとブラジル人スタッフの懸け橋として大活躍しています。もちろん大のサッカー好きで、「パルメイラス」の熱狂的サポーターです。
このように若い日系人たちはのびのびとブラジル社会に同化しているという印象を強く受けましたが、彼らより上の世代の日系人たちからは祖国日本に対する思慕の情を強く感じました。
リオデジャネイロで観光ガイドをしているヨシムラさん。とても美しい日本語を話されるのでびっくりしましたが、ブラジルへ移住したのは50年以上前の20代の頃とのこと。リオはサンパウロに比べると日系人も少なく、映画を見てポルトガル語を覚えるなど苦労も多かったそうです。サンパウロに住んでいた日系人女性と遠距離恋愛の末結婚しましたが、「リオは一年中温かいから離れがたくて、強引に奥さんを連れてきちゃった」と笑っていました。70歳を過ぎても背筋がピンと伸び凛(りん)とした姿は、常に前向きに生きてきたヨシムラさんの生き方そのものだと感じました。

サンパウロで宝石店を経営するイシノさんは、ブラジル移住後も日本との関わりを強く保ち、長年日系人社会の発展のために力を尽くしています。「これを持っていると運が開けると評判ですよ。プロ野球選手にも喜ばれました」と帰り際に水晶をくださいました。礼儀正しく、情に厚いイシノさんには誰よりも日本人らしくありながら国際人であるという理想を見た気がします。
週末の日本人街(リベルダーデ)は、ちょうど原宿の竹下通りのように人で溢れ返っています。このような賑わいはAさんのような世代の方々の苦労と努力の上に成り立っているのでしょう。ここ数年は日系人や日本人駐在員たちよりも、一般のブラジル人たちが“メイドインジャパン”を求めて、たくさん訪れるようになったそうです。日本料理店も多くの一般ブラジル人たちが上手に箸を使い、ラーメンやたこ焼きに舌鼓を打っていました。
ブラジルの中の日本は着実にブラジルの大地に根を張り、その根は深くそしてどんどんと広がっていると感じました。
日系ブラジル人の日本への出稼ぎも日系人の無制限受入れが始まった1990年以降一気に増え、現在日本に滞在する日系ブラジル人は約30万人に上るとされています(これは日本からブラジルへ移民した日本人の総数とほぼ同数)。日本人は「地面に穴をずっと掘っていくとブラジルに出る」とよく言いますが、距離的には最も遠い国の1つであるブラジルとこれだけ人的交流があるとは、まさに「遠くて近い国」と言えるかもしれません。
文:黒崎りえ

『人類は麺類』。これはある即席麺の広告で使われたフレーズですが、この言葉が表すとおり、パスタやビーフン、ラーメンにフォーなど、世界には数々のおいしい麺があります。皆さんの中にも麺の好きな方は多いのではないでしょうか。日本にも「そば」や「きしめん」など様々な麺が存在しますが、その中でも「うどん」、特に「さぬきうどん」と呼ばれる麺がここ数年でまたまた脚光を浴びるようになってきました。今回はこの「さぬきうどん」を取りあげてみましょう。日本留学中、皆さんも一度は「うどん」を食べたことがあったでしょう。でも「さぬき」のうどんはひと味もふた味も違うんですよ!

「うどん」の中でも香川県で生産される麺を、香川県の古い名称である「さぬき」を用いて「さぬきうどん」と呼びます。この「さぬきうどん」の特徴は強い弾力のあるシコシコとした歯ごたえにあります。昔からこの地方では原料の小麦、塩、いりこ(煮干し、カタクチイワシ)、醤油が特産品であったため、うどんの文化が発展しました。今でも年間消費量、生産量共に日本一です。この小麦も現在では日本のうどん用に開発されたオーストラリア産が多く使われているそうです。
メニューは多様で、醤油を少しかけただけのものから薄めや濃いめのだし汁をかけ、油揚げや玉子や天ぷらなどをのせたもの、そしてつゆにつけて食べるものまであります。
食べ方については、ツルツルッとすすって食べるのが基本です。さらに補足すると、一度口につけた麺は最後まで噛み切らずに一気にすすり、ほとんど噛まずに食べて喉越しを味わうのが本場の「さぬきスタイル」。でも、皆さんはすするという食べ方自体になじみがないかも知れませんし、噛み切らずに一気に食べるのはとても難しいもの。食べ方を気にするあまりに味を楽しめないようでは本末転倒になってしまいます。まずは、食べ方にこだわり過ぎずにうどんを味わうことが大切です。

「さぬきうどん」の店も様々で、自分で麺を温めて好みの具材を自由に選んで乗せるセルフサービスの店や、打ち立てのうどんを出してくれる製麺所は特に人気があります。このようなところでは、1杯100円から200円で食べることができます。そういう意味では、「さぬきうどん」は体にもお財布にもヘルシーな食べ物と言えるでしょう。
もともと香川県一帯で食べられていた「さぬきうどん」ですが、地元のうどんファンが県内の店を食べ歩いて紹介した本が出版されたのを機に、全国的に認知されて人気が高まりました。また、「さぬきうどん」を題材にした映画が数年前に上映された影響もあり、現在ではさぬきうどんを食べるために全国各地から多くの人々が香川県を訪れています。うどんは消化が良いこともあって、1日に6〜7軒のうどん店を巡る熱狂的なうどんファンも存在するほどです。
とはいえ、香川県にあるうどん店の数は約800軒!初めて訪れる人にとって、行きたい店に迷わずたどり着くのは至難の業です。そこで重宝するのが「うどんタクシー」。この「うどんタクシー」の運転手さんはうどん店のガイドを兼ねていて、目的の店まで送ってくれるのはもちろんのこと、おいしいうどん店の紹介・案内もしてくれます。予算を安く抑えたい人にはレンタサイクルがお薦めです。のどかな風景を眺めながら自転車で駆けた後に食べるうどんの味は格別でしょう。また、食べるだけでは物足りないという人からは、「うどん学校」で生地の作り方から調理の仕方までを一日で教えてもらう『手作りうどん体験ツアー』が人気を集めています。
今回ご紹介した「さぬきうどん」は、近年では韓国・台湾・英国・アメリカ・フランス等世界各地にも進出し始めています。もしもあなたの国でも「さぬきうどん」の看板を見かけたら、一度トライしてみてください。そしていつか香川県を訪れる機会があれば、是非とも本場のおいしい「さぬきうどん」を本場の「さぬきスタイル」で一気にすすってみてください。
何を隠そう、この私、生まれも育ちも「さぬき」は高松、もちろん今日もお昼は・・・さぬきうどん!
参考・画像提供: ((社)香川県観光協会)、さぬきうどん百店満点、うどんの打ち方(四国新聞)
文: 島津里美

天気予報は日常の会話に欠かすことのできない話題の1つで、私たちの日々の行動にも少なからず影響を与えています。外出時に降水確率が80%と出てたら傘を持って出るでしょうし、気温が30度を超えると聞いたら半袖1枚になったりしますよね。これが大雨・雪、台風といった現象になりますと、交通機関などのインフラが大きな被害を受けますので、私たちの安全な生活には正確な予報が欠かせません。

さて、現代の社会生活におけるインフラは地上のものにとどまりません。1957年に世界初の人工衛星「スプートニク1号」が打上げられてから、人類はこれまでにおよそ5400機の人工衛星を打上げて宇宙へ活動の場を拡大してきました。気象衛星や放送衛星などで皆さんにもお馴染みだと思います。今後も宇宙ステーション活動などを通じて、ますます私たちの暮らしを遥か上空から支えてくれることになるでしょう。
その宇宙空間では人間が地上と同じように生活するのは不可能です。そしてそれは人工衛星などにとっても実に厳しい環境なのです。もちろん宇宙には雨や雪は降りませんが、別の種類の「嵐」が時々発生しています。皆さんは宇宙には空気がないと思われているかもしれませんが、実際には非常に薄い(地上の1億分の1のそのまた1億分の1以下)気体が存在します。この気体は「プラズマ」と呼ばれ、プラスマイナスの電気を持って宇宙空間を秒速数100キロメートルのスピードで流れています。台風の風速が秒速数10メートルですから、どれほど凄まじいエネルギーを持っているかがわかると思います。特に太陽がフレアと呼ばれる大爆発を起こしたときに、秒速1,000を超えるほどのプラズマが流れ込んできて「嵐」が起きるのです。

地上にいる私たちは地球の磁場や大気によって、この嵐から守られています。しかし宇宙環境では、例えば人工衛星の回路は破壊されますし(1機数100億円の被害が出ます)、宇宙飛行士は放射線被ばくまでしてしまいます。上図(情報通信研究機構提供)は主に予想される影響を挙げています。こうした宇宙活動における被害を防ぐために、前もって嵐の予測をする「宇宙天気予報」の研究が現在世界各国の研究機関で行われています。特にISES(International Space Environment Service)という国際機関には、日本・米国・オーストラリア・カナダ・ベルギー・スウェーデン・ロシア・ポーランド・チェコ・インドが加盟していて、互いに観測の情報などを交換しあうネットワークを作っています。
日本では情報通信研究機構(http://www.nict.go.jp/)に設置されている宇宙天気情報センターが日々の業務を担当しています。主に人工衛星などから24時間365日送られてくるデータを使って太陽の活動や地球近くの宇宙環境を監視していて、特に太陽の爆発現象を見つけたらすぐに警報を出すシステムを開発しています。この予報を利用すると、航空機や船舶はGPS衛星との通信障害に対する対策を前もって取れますし、船外活動している宇宙飛行士を宇宙ステーション内のシェルターに退避させることもできます。こうした宇宙環境の情報はウェブサイト(http://swc.nict.go.jp/)で毎日更新されています。太陽の活動は11年周期で強くなったり弱くなったりしていて、現在は爆発がほとんどない静かな時期なのですが、今後数年間かけて活発になってきますので、宇宙天気予報が活躍する機会が増えることでしょう。
ちなみに宇宙の「嵐」は、その副産物として高緯度地域(例えば北欧やアラスカ)にオーロラを発生させることがわかっています。宇宙旅行も一般的になるであろう20XX年、とある大学のカフェテリアでひょっとしたらこんな会話が交わされているかもしれませんね。
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「次の休みは月旅行にしようか」
「でも宇宙天気予報によると、しばらく嵐になるみたいだよ」
「それじゃオーロラツアーに変更した方がいいね」
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文: 坪内 健 (独立行政法人 情報通信研究機構 宇宙環境計測グループ 専攻研究員)

我が家のEcology
皆さんは買い物に行くとき、ショッピングバッグを持って行きますか?日本でも昭和40年代(1960年代)までは買い物かごを持って日々の買い物に行くのが普通でした。しかし、小売店からスーパーマーケットに変わり、ビニールの買い物袋(レジ袋)が普及するにつれて、買い物かごは姿を消していきました。
しかし、環境保護のために、レジ袋を削減しようというキャンペーンが広まり、私たちのまわりでも徐々に買い物用のマイバッグ、エコバッグが定着してきました。最近ではレジ袋を有料にするお店も増えてきているので家計にも地球にも優しいですよね。レジ袋1枚を作るためには小さな猪口(ちょこ)1杯分(約16〜18ミリリットル)の原油を使います。また、製造過程で30グラム、焼却過程で31グラムの二酸化炭素を排出するため、1枚のレジ袋を使用しないと約61グラムの二酸化炭素の排出が抑えられます。現在日本で年間に使われるレジ袋は約300億枚で、原油に換算すると約60万キロリットル。限りある資源、しかもすさまじい原油高、温暖化への不安・・・地球市民として、皆で最初の一歩を踏み出しましょう。

ただ、エコバッグは使わない時に持ち歩くには、ちょっとかさばるなとお思いの方もいらっしゃるかもしれません。でも大丈夫、日本にはいいものがあります。そうです。ふろしきです。ふろしきは1枚の布で、手さげひももついていませんから、たためばかさばりません。それにデザインも懐かしい和風のものから現代にも十分なじむ素敵な柄(がら)が多くあり、Ecologyが叫ばれるこの時代だからこそ、その使い道をもう一度考えてみると楽しいのではないでしょうか?
ふろしきは、風呂敷?
ところで、ふろしきはいつ頃からあるのでしょうか? ふろしきは言うなれば一枚の布です。布を「包みもの」として利用するようになったのが布が生み出されたのと同時であるとすると、日本の「包み布」の歴史は縄文時代の晩期までさかのぼります。「包み布」は時代によって様々な呼び名がありましたが、風呂と「包み布」の関連が初めて出てくるのが室町時代です。将軍から蒸風呂に招かれた大名達が他人のものと間違えないように家紋を入れた一枚の布で衣類を包んだり、その上で着替えをしたりしたという記録が残っています。そして江戸時代には風呂道具を包んで銭湯に通うようになりました。そしてこの包み布は、「風呂の敷きもののような包みもの」すなわち「風呂敷包み」と呼ばれるようになり、江戸の後期には「包み」が取れて、必ずしも風呂で使う布でなくても「風呂敷」という名前が包みものを意味するようになったようです。また、当初は無地か屋号や家紋を染め抜いたものしかありませんでしたが、染織技術の確立により様々な柄の表現が可能となり、ふろしきのデザインにバリエーションを与えました。
“MOTTAINAI”
ワンガリ・マータイさんはケニア出身の環境保護活動家であり、その分野で初めてノーベル平和賞を受賞した人物です。2005年に来日したとき、日本語の『MOTTAINAI(もったいない)』 という言葉にとても感銘を受けました。その後、自然や物に対する敬意や愛などの意思が込められているような言葉が他に見つからなかったため、地球環境を守る世界共通語として『MOTTAINAI(もったいない)』というメッセージを世界中に広める決意をしたと言います。
(参考:http://mottainai.info/about/)
その彼女が2度目の来日(2006年)の際には、日本の伝統美であるふろしきを「もったいない精神の象徴」として紹介しました。Reduce(消費削減)、Reuse(再使用)、Recycle(リサイクル)には、最適のアイテムと言えるでしょう。
どんな形にも・・・
また、ふろしきの素晴らしいところは、環境問題の観点からだけでなく、包み方・結び方を工夫するとどんな形のものでも包めることです。基本的な包み方を覚えれば、誰でも応用ができるのです。また、真夏にクーラーが効きすぎるところでは、絹の風呂敷をちょっと肩や膝にかけてみたり、タペストリーやテーブルセンターとして利用したり・・・そんないろんな新しい使い道(Revive)の発見も楽しいのではないでしょうか?


参考・画像提供: 宮井株式会社 風呂敷資料室
文:神田 美鈴

今年のNHK大河ドラマ『篤姫』は、徳川家に嫁いだ篤姫の波乱の生涯を描き、人気を博しています。篤姫の生きた幕末、明治は、250年に渡る徳川幕府の鎖国時代が終わり、日本が外国への扉を開け、文明開化を遂げた時代です。そのきっかけとなったのが、1858年ペリーの来航です。この歴史的な出来事をきっかけに日本は開国し、各地に港を開きます。その港のひとつが横浜です。
当時の横浜は小さな寒村でしかありませんでしたが、1859年の開港によって日本と外国を結ぶ窓口として技術・文化・人が集まるようになり大きな発展を続け、現在の大都市になりました。

現在横浜は港の見える丘公園や元町、みなとみらいなどに代表されるように国際的でおしゃれな街として、人気を集めています。横浜出身の人々は自分たちのことを誇らしげに「はまっこ」と呼びます。
開港当時、横浜には多くの外国人がやってきて、自分の国の文化やモノを色々横浜に伝えました。その中には、今ではすっかり日本に定着したものもたくさんあるのです。

例えば、アイスクリーム、ビール、クリーニング、牛乳、石鹸、ドレスメイカー(洋裁)などは、この時代外国から横浜に伝えられた代表的なものです。野球、テニス、スケート、競馬など、現在日本で盛んなスポーツも横浜を発祥の地としています。

また、一般的にあまり知られていませんが、ブラスバンドも横浜が「はじめて」なのです。
1869年、イギリス海軍軍楽隊の演奏に魅了された薩摩藩(現在の鹿児島県、篤姫の出身地でもあります)当主が同藩の若者32名をイギリス軍楽隊の元へ送り、ブラスバンドを結成しました。そして、翌年、彼らは山手公園野外音楽堂で日本初のブラスバンド演奏会を催したのです。この時の記念碑が今でも本牧妙香寺に残っています。日本人ブラスバンドの演奏を目の当たりにした当時の横浜の人々は、おそらく新しい時代の息吹を感じたことでしょう。


来る2009年、横浜は開港150周年を迎えます。開港から150年―――数々の「はじめて」を発信してきた横浜の歴史は日本文化と外国文化の融合の歴史でもあります。21世紀の横浜から、どんな「はじめて」が発信されていくのか、楽しみですね!
文:黒崎りえ
■参考ウェブサイト:
写真提供:財団法人 横浜観光コンベンション・ビューロー、横浜市立図書館、社団法人 日本吹奏楽指導者協会
<九州の玄関口、福岡>
ロンドンの月刊誌MONOCLEの「世界でもっとも暮らしやすい都市」総合ランキングで17位、さらにショッピング部門では世界第1位に選ばれた福岡は、都会の便利さと日本の文化や伝統がほどよくミックスされた都市です。飛行機なら上海へはたった45分、香港・釜山へ55分、ソウル・台北へも80分たらずです。

<福岡と博多>
行政上は福岡県福岡市、空港も福岡空港ですが、JRは博多駅、港も博多港、工芸品には博多人形、博多織、方言も博多弁と呼びます。ふたつの地名が混在するのはなぜでしょう? 現在では、福岡市の中に博多区がありますが、歴史的には、川の西側に殿様と武士のいる城下町「福岡」、川の東側に商人の町「博多」がありました。「博多」は、外国に近いため古くから貿易や人の往来が盛んでした。

<博多祇園山笠の生い立ち>
13世紀中頃、博多の町に疫病がはやりました。そこで1人のお坊さんが、人々のかつぐ台に乗って特別な水をまきながら祈ると、疫病はおさまりました。これが博多祇園山笠の始まりと言われています。人々がかつぐ台を「神輿(みこし)」「山車(だし)」などと呼びますが、博多では「山笠(やまかさ)」といって、人形を飾ります。また、かつぐことを「山笠を舁(か)く」と言います。山笠を舁くのは、法被(はっぴ)に締め込み姿の男の人たちです。

<山笠を支える「流れ」>
博多の山笠は7つあり、地区の自治組織「流れ」毎に名前がついています。「流れ」の男の人たちは、祭りや行事の運営はもちろん、町内の冠婚葬祭なども取りまとめます。女の人たちは「婦人会」を作って行事の時の炊き出しから日常の重要な役割を果たします。子どもたちも「子ども山笠」や本番の山笠に参加して山笠を学び、成長していきます。このように「流れ」の人たちを中心に山笠は準備・継承されます。総勢では、ひとつの舁き山で約千人もの人がかかわるのです。

<舁き山と飾り山>
期間中、福岡市内の14ヶ所に「飾り山笠」が立ちます。「飾り山笠」は、「舁き山」のように、かついだり動かしたりはしません。10メートルもある飾り山笠は、博多人形師たちが、日本の歴史や文学、人気テレビキャラクターを題材に製作する巨大立体絵画なのです。
<山笠のクライマックス>
7月1日から大きな行事が続き、最終日の15日は圧巻です。夜も明けきらない午前4時59分、太鼓の合図とともに一番の山笠が櫛田神社をスタートします。「オイサッ」「オイサッ」の大軍勢の勇壮な掛け声と共に山笠は大通りや小路を走り抜けていきます。通りや舁く人たちには、熱気を鎮めるために勢い水がまかれます。そしてゴールまで走り着いた男たちの息は荒く目は血走っていますが、静かな興奮に包まれています。みんなで一斉に手を打ってその場を締める「手一本」という博多ならではの挨拶をして、山笠は終わります。祭りが終わると夏も本番、照りつける日差しと暑さがやってきます。
文:吉村あかね
■参考ウェブサイト:
写真提供: よかなび、大黒流、松月堂

日本では毎年2月から4月にかけて、テレビなどの天気予報で気温や降水確率以外にある情報を知らせているのですが、皆さんはそれが何かわかりますか?
答えは、スギ花粉の飛散量予測。というのもその時期になると、スギ花粉が原因となって、鼻水や鼻づまり、目のかゆみ、くしゃみといったアレルギー症状を引き起こす「花粉症」に多くの人が悩まされるからなのです。
今回はこの「花粉症」に注目してみましょう。
日本国内ではほぼ一年中、何らかの植物がアレルギーの原因となる花粉を飛ばしていますが、中でも春に飛散するスギ花粉にアレルギー症状が出る人は多く、現在ではおよそ5人に1人が発症していると言われています。
単に「花粉症」と言えばスギ花粉症を指すほどで、花粉症の代表格と呼んでもいいくらいです。皆さんも春頃に花粉を防ぐためのマスクをしている人を(中にはゴーグルをかけて完全防備している人も!)しばしば見かけたことでしょう。
ちなみに、花粉症は日本以外にも世界各地で見られます。日本ではスギ花粉による花粉症が主流ですが、英国ではイネ科の植物、アメリカではブタクサ、北欧諸国ではシラカバに、それぞれアレルギー症状を示す人が多いそうです。
日本でスギ花粉症にかかる人が多いのは、スギの植林が戦後大規模に行われた結果、大量の花粉が飛ぶようになったからだと言われていますが、それ以外にも、遺伝やストレス、自動車の排気ガスなどによる大気汚染が要因として挙げられます。また、舗装道路が増えたため地表に落ちた花粉が舞い上がりやすくなっていることも理由のひとつと思われます。さらには、最近の清潔志向にともなって病気の原因となる細菌や微生物に接する機会が減ったことが、本来病原体ではない花粉に対してアレルギーを発症する要因になっているとも考えられています。いずれにせよ、昔に比べて花粉症を発症する人が増加する傾向にあります。
この花粉症、一度発症すると完治することはほとんどないと現時点では考えられています。そのため、飲み薬や目薬で症状を抑えるしかないのですが、花粉症大国・日本では近年、薬以外にも先ほどあげたマスクやゴーグル、アレルギー症状をやわらげるガムやお茶、花粉の付着を減らす衣類用スプレーなど、さまざまな花粉症対策グッズが販売されるようになってきました。
また、スギ花粉の飛散自体を抑える手段として、花粉のないスギの改良・移植も進められています。
しかし考えてみれば、人間もスギも長年同じ地球上で暮らしてきた生き物。それなのに、人間の生活環境がどんどん進歩し快適になることが、「地球上のお隣さん」であるスギに対するアレルギーをひどくさせているとは、なんとも皮肉なことだと思いませんか?
花粉症で苦しんでいる人がいる以上、その症状を取り除く薬や製品を開発することはもちろん大切ですが、スギをはじめとして自然界に存在する植物に私たち人間の体がアレルギー症状を示すという不自然な状況を考え直すことも、同じくらい重要なことに思えます。
今回は日本のスギ花粉症をとりあげましたが、皆さんの国や地方ではどうでしょうか。花粉症は存在しますか?アレルギーを発症している人の割合はどのくらいですか?生活様式や環境の変化が新たなアレルギー症状を引き起こしたりしていませんか?
最後に1つ。日本の文化や言語・習慣を吸収してこられた皆さんが、スギ花粉症まで身につけたりしていませんように!
文:島津里美

海外生活を始めるとき、皆さんはどんなことが気になりますか? 言葉、食事、習慣、教育・・・などいろいろあると思いますが、医療事情もそのひとつに入るのではないでしょうか。
日本は一般的に、医療技術の高い国だと認識されています。皆さんの中には、医療(医学)を学ぶために日本へ留学された人もいらっしゃるでしょう。しかし、日本の医療には、国民健康保険、老人医療や臓器移植など様々な問題点が指摘されています。今回はその中でも、減少する産婦人科の問題と外国人医師受け入れの問題について取り上げたいと思います。
出産難民という言葉をご存知ですか? これは、病院出産を希望しながらも地域に適当な出産施設がない、あるいは施設はあっても分娩予約が一杯で受け付けてもらえない妊婦のことをなぞらえた言葉です。現在、日本では「出産難民」の増加が大きな問題になっています。
近代までの日本では、出産は産婆(現助産師)さんを自宅に呼んで行うものでした。しかし、難産になると母子ともに命を落とすことも珍しくなく、戦後の経済発展と医療水準の向上とともに次第に病院出産が増加して、日本の周産期死亡率(出産1000件あたりの死亡事故数)は世界最低の水準まで減少しました。しかし、この安全な出産は産科医の過酷な労働と努力に依存するものでした。自然分娩が一般的な日本では産科医の労働条件は過酷なうえ、男性産科医を嫌う患者さんも多いこと、女性産科医は自身の結婚出産への労働条件が整っていないことなどから、産科医を志願する医学生が激減し、日本は慢性的な産科医不足に悩むこととなったのです。2006年末時点で産科医は、医師の総数が増加傾向にあるにもかかわらず、外科医とともに減少を続けています。
朝日新聞によると、2006年4月からの1年間で分娩を取りやめた病院は全国で105病院にものぼります。自治体の中には、離職した女性産科医の復帰支援などを打ち出しているところもありますが、このままでは妊婦さんたちは安心して子どもを生むことができなくなってしまいます。
出産難民に象徴されるように、日本では特にへき地で医療関係者が不足するという事態が深刻化しており、政府も重い腰を上げつつあります。ひとつの打開策として、日本の医学部で勉強し、博士号を取得したり、研修した外国人医師に対して、広く門戸を開こうという動きが見られます。
日本の医療は長く人材の輸出超過の時代が続きましたが、今後は医療分野でも国際化が本格化してくることでしょう。
「医療に国境なし」という理想が真に実現されることを願うばかりです。
文:黒崎りえ
言い伝え。それは物心ついたときから両親や祖父母に教えられ、生活の一部になっているものです。皆さんが生まれ育った国や地域にも、それぞれの言い伝えがあることでしょう。
今回は、日本の言い伝えをいくつかご紹介します。
・敷居を踏む人は出世できない?
敷居や畳の縁を踏むのはいけないこととされています。地方によっては「敷居を踏むと出世できない」とも言われます。 その理由として、単に「行儀が悪いから」と教えられることもあれば、「畳の縁や敷居がすり減って傷んでしまうから」という現実的な根拠が挙げられる場合もあります。 一方で、敷居を「曖昧で危険な境界」ととらえたり、反対に「神聖な場所」や「人の頭」とみなして、そこを踏むと良くないことが身に降りかかるとも考えられています。
この考えは日本独自のものではないようで、タイやモンゴル、韓国でも同様の言い伝えがあるそうです。
・噂話の感知器
皆さんがくしゃみをするのはどんな時ですか?寒いとき?それとも埃っぽいとき?
日本では、くしゃみが出るのは「誰かが自分の噂をしているとき」だと言います。おまけに、くしゃみの回数で噂話の種類が分かるのだとか。一回のくしゃみなら良い噂、連続二回だと悪い噂、三回はもっと悪い噂、そして四回では「風邪」。くしゃみの回数と噂の内容については地域によって違いがありますが、「くしゃみ四回=風邪」は一致しているみたいです。一回から三回までの真偽はともかく、くしゃみが四回連続して出る原因について疑う余地はなさそうですね。
・上の歯は下に、下の歯は上に
わが子の健やかな成長を願う親の気持ちは世界共通。そんな子供にまつわる言い伝えの一つが「子供の乳歯が抜けたら、上の乳歯は地面に向けて下の乳歯は屋根に向けて投げなさい」というもの。
これは、上下どちらの歯もまっすぐに伸びて欲しいという願いからきています。また、歯を投げる際に「ネズミの歯と換えてくれ」とか「ネズミの歯より速く生えろ」と唱えるところもありますが、これにはネズミの歯のように早く成長して欲しいという気持ちが表れています。
ちなみに、欧米では枕の下に乳歯を入れておくと妖精がコインに代えてくれたり、乳歯を綺麗な小箱に入れて大事に保管したりするそうですが、日本では一般的に投げた歯をその後拾って保存することはありません。ということは、家の庭の片隅や屋根の上には子供達の乳歯が人知れず残されているということでしょうか…。
・夜に爪を切ってはいけない理由とは…?
それは「親の死に目にあえないから」。ちょっと不吉な言い伝えですね。
昔の人たちは、夜は化け物や精霊が活動する時間だと考え、その時間に身体の一部を切ったり刃物をあてたりすることを忌み嫌いました。また、昔は今ほど照明器具が発達していなかったため、暗い中で爪を切ると身体を傷つけかねないという現実的な理由もあったようです。
ただし、朝早くから学校や会社に出かけて夜に帰宅するライフスタイルが定着した今(加えて、昔と比べて室内照明が格段に明るくなったせいでもあるのでしょうか?)この言い伝えはどんどん薄れてきているようです。
・夜に吹いてはいけないもの
爪を切ること以外に夜にしてはいけないものとして「口笛を吹くこと」があります。子供の頃に「夜に口笛を吹くとヘビが来る(ヘビ以外には天狗、人さらい、泥棒が来るという説もあります)」と親から教えられて恐ろしい思いをした日本人は少なくないはずです。
もともとは、夜にうごめく霊やもののけたちが口笛に呼び寄せられることを恐れたためですが、現代では、静かで音が響きやすい夜に口笛を吹くと迷惑になるからという、近隣住民に対するマナーにもなっているようです。
・年の初めの夢占い
誰でも眠っているときはいい夢を見たいもの。それが一年の最初に見る夢となればなおさらです。
日本には「一富士、二鷹、三茄子」というフレーズがあり、一月二日の夜に夢で見ると縁起がよいものとして一番目に富士山を、次に鷹と茄子を挙げています。一説には、これらはいずれも徳川家康にゆかりのあるもので、天下を取った将軍にあやかりたいという当時の庶民の願望が反映されたと言われています。
今年の一月二日、あなたはどんな夢を見ましたか?
ここに挙げた言い伝えはほんの一部。他にも沢山の言い伝えが存在します。皆さんにとって、共感できるものもあれば不可解なものもあることでしょう。
皆さんの故郷にはどんな言い伝えがありますか?それらと比較してみるのも面白いかも知れませんね。
文:島津里美
皆さんは「オタク」という言葉を知ってますか? もともとは相手や相手方、相手の家、相手の夫を指す尊敬語ですが、最近では特定の分野や物事(主にアニメやゲーム、パソコンなど)にしか関心がなく、他人と上手にコミュニケーションを取れない人たちが仲間内で相手を「オタク」と呼ぶ傾向にあることから、そのような人たち(主に男性)を「オタク」と呼ぶようになりました。

今回は、その多くの「オタク」たちが集まる聖地として注目を浴びる秋葉原について紹介したいと思います。
外国人の日本に対する印象と言えば、一昔前は「ゲイシャ! フジヤマ!」というのが相場でした。しかし、ここ最近、日本を訪れる外国人の間で人気急上昇なのが秋葉原、通称:アキバです。秋葉原の名まえを一躍有名にしたのは『電車男』でしょう。オタクの聖地秋葉原を舞台にオタクで冴えない男の恋物語を描き、小説、映画、ドラマと展開して、世間を一気にオタクブームに巻き込みました。
一方、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』がベルリン国際映画祭で金熊賞(グランプリ)を受賞するなど、日本アニメの世界的評価が高まっていたこともあり、アニメ&オタク文化の中心地秋葉原は世界的にも注目を集めるようになったのです。皆さんの中には、アニメがきっかけで日本に興味を持ったと言う方も少なからずいらっしゃるでしょう。
秋葉原にはJR山手線、京浜東北線、総武線、そして、東京メトロ日比谷線が通っています。さらに、2005年には秋葉原駅と茨城県つくば駅を結ぶつくばエクスプレス線が運行をはじめ、それを期に秋葉原の街自体が美しくリニューアルされました。
<秋葉原の歴史>
江戸時代、秋葉原には下級武士たちが住んでいました。火災の多かったこの地域に、明治時代、火除けの神様「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」を祀(まつ)ったことから、しだいに秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)と呼ばれるようになったということです。秋葉原がアキバと省略されるのはこのあたりが語源となっているようです。

第二次世界大戦で焼け野原となった秋葉原は戦後の復興とともにしだいに電気街として姿を変えていきます。昭和40〜50年代の家電ブームによって、秋葉原は電気の街として知られるようになります。
しかしバブルが崩壊し日本経済が低迷期に入ると秋葉原の勢いも衰え、その時期にアニメやマンガ、フィギュアを販売する店が増え始め、それが現在のアキバブームへつながっていくのです。
<現在の秋葉原>
●メイド喫茶
現在のアキバを代表するのは、なんといってもメイド喫茶でしょう。「お帰りなさいませ、ご主人様!」というかわいいメイドさんの挨拶ですっかり有名になりました。海外からの「ご主人様」も急増中とのことです。
最近はメイドさんやコスプレ姿の女の子の写真を撮ろうと群がるオタクたちもすっかり名物になっています。
●東京アニメセンター
2006年にオープンしたアニメーションのランドマーク的存在です。アニメに関する様々なイベントや展示会、アフレコ体験、そして、限定オフィシャルグッズの販売など、世界中のアニメファン憧れの場所です。
●電気の街秋葉原

オタク文化にすっかりお株を奪われたとは言え、電気の街秋葉原は今も健在です。駅のすぐそばにそびえる大型家電量販店の中には外国人専用のカウンターがあり、いろいろと親切に相談に乗ってくれます。
一方、電気部品なら何でも揃う専門店街(秋葉原ラジオストアなど)も健在で、電気オタクたちの秋葉原に対する人気と信頼は変わりません!
繊細で探究心旺盛な日本人の技術とアイデアが集まった街、それが秋葉原です。 日本の今、そして未来に一番近いスポットと言えるかもしれませんね。
文:黒崎りえ
十人十色=考え・好み・性質などが人によってそれぞれ違うこと。(大辞林より)
日本人の長所はというと、統計数理研究所による「日本人の国民性調査」結果では「勤勉、礼儀正しい、ねばり強い、親切」などが上位を占めています。それに反して、「独創性に富む、明朗、自由を尊ぶ」などは下位にランクされています。
皆さんが留学中に出会った日本人はどんな人々でしたか?皆さんが留学した先々で「これが日本の文化、習慣なのか!」と驚いたこともあったでしょう。でも・・・・ちょっと待った!・・・それは標準的な日本の文化だったのでしょうか?
外国であれば、文化や習慣が違っても当然と割り切れるところですが、こんな狭い島国でも、言葉や食べ物、習慣は様々で、同じ日本人同士でもびっくりすることがたくさんあります。
今回はそんな「日本人もびっくり、日本ってこんなに違うんだ!」というお話しをいくつか紹介します。
○長野県民は万歳が大好き?
日本では喜びや祝いを表す時に「万歳」をします。しかし、選挙に当選した人が「万歳」をしている以外に普段はあまり見ることはありません。ただし、長野では、結婚式やお祭り、クラブ活動、PTAや近所の集まりなどいろんなイベントの閉めにはバンザイをすることが多いそうです!山梨でも結婚式には万歳する地域があると山梨県民が言っていましたよ!
○自転車はつらいよ?
坂が多い町と言えば、世界ではサンフランシスコ、リスボン、ナポリ、日本では小樽、東京、神戸、尾道、そして長崎。
坂の多い町の大学に留学していた皆さん、移動は徒歩でしたか?それとも自転車?
実は長崎ではその坂ゆえに自転車にあまり乗らないし、乗れない人もいるそうです。バスにも上りだけの片道定期券があるのだそうです。
鎖国の時代にも唯一海外との貿易の窓口となったこの町には異国情緒が溢れ、開港前に長崎に住んでいた唯一の西洋人がオランダ人だったことから、当時東洋人以外の外国人を「オランダ」さんと呼んでいたので、彼らが良く通った石畳の坂道は今でも「オランダ坂」と呼ばれています。
○食べ物に「さん」?
日本では親しい間柄では呼び捨てにすることもありますが、相手への敬意や尊重の気持ちを込めて「さん」を付けますね。
しかし、大阪の人はなんと食べ物にまで「さん」をつけることがあります。さらにていねいに「お」まで付けるのです。とはいえ、全部に「お〜さん」を付けるわけではなく、ごく身近なものに限られるようで、「お芋(いも)さん」「お豆(まめ)さん」と呼ぶそうです。なんだか親しみを込めて食べ物を大切にしている大阪の人の優しさが伝わってきますね。でも料理をする前の材料としての芋や豆には「さん」は付けないんだそうですよ。ふしぎですね!
○すき焼きの肉はビーフ?ポーク?
留学中にすき焼きを食べたことはありましたか?すき焼きと言えば当然牛肉と思っていたのですが、なんと群馬では豚肉を使うんだそうです。焼肉屋でも豚肉の人気は高いそうで、豚肉消費量は沖縄についで全国2位!
ちなみに豚肉の一人当たりの消費量の多い国としては香港、オーストリア、デンマーク、チェコ、スペイン、ドイツなどで、最も多いデンマークの65.9sと比較すると日本の16.9kgは世界的に見ても少ないんですね。
○水道からは何が出る?

子供の頃、「水道の蛇口からオレンジジュースが出たらいいなぁ」なんて考えたことはありませんでしたか?それが実は京都の茶どころ宇治市では、小学校28校中26校で、水が出る蛇口とお茶が出る蛇口があるんですよ!これに負けじと同じくお茶の産地静岡でも同じような施設をつける小学校が現れたということです。でも水もお茶も無駄にすることなく、大切にしましょうね!
○鳥取市民はカレー好き?
明治時代の初期(1870年頃)インドからイギリスを経て日本に伝えられ、今や日本では大人も子供も大好きなカレーライス!インドやタイのカレーとは違った独特の日本のカレー、皆さんも良く食べたのではないでしょうか?
カレーうどん、カレーそば、カレーパン、カレースパゲッティなどいろいろありますが、世帯当たりのカレールウ消費量日本一の鳥取市では、カレー味のアイスクリームやカレーパフェまであるそうです!ちなみに鹿児島、福井と並んでカレーに添えるらっきょうの産地としても鳥取は有名です。
アイスクリームと言えば、日本各地には他にも醤油アイスクリーム、うどんアイスクリーム、ほうれんそうアイスクリームなどもあるそうです。んんん、恐いけど食べてみたいような・・・。
私たちの知らない日本の姿、明日からまた不思議探しの旅に出かけましょう!
映画の都と言えばハリウッド、ユニバーサルスタジオに行ったことがある方もいらっしゃるでしょう。この地に映画産業が発展したのは、一年を通じて雨が少なく、屋外撮影に適していたからだそうです。2001年には大阪にユニバーサルスタジオジャパンがオープンしたので、留学中の皆さんの中にも一度は足を運んだ方もいるかもしれませんね。
さて、「日本のハリウッド」と呼ばれるのが京都太秦(うずまさ)です。ここには1920年代以降に日活、大映、松竹、東宝、東映など日本を代表する撮影所がありました。「羅生門(らしょうもん)」「七人の侍」など世界に知られた名作もここで作られました。古き良き日本の姿を留めている京都は、時代劇撮影には適した場所でした。1975年には撮影所隣に東映太秦映画村がオープンしました。ここでは皆さんもテレビや映画で見たことのあるセットがたくさん見られます。
*江戸の町
1800年頃、江戸の人口はすでに100万人を超えており、ロンドンやパリ、北京よりも多かったのです。
町奉行所(まちぶぎょうしょ:今の行政・司法機関)
庭に白い砂利が敷かれていたので、「お白州・白砂(しらす)」と呼ばれました。
火の見櫓 町火消(まちびけし)とその家(今の消防団)
火事とけんかは江戸の華、と言われるほど良く火事があったそうです。平均すると3年に1回は大火事、7日に1回は小火(ぼや)があったことになります。左端の写真にあるのは火の見櫓(ひのみやぐら)と呼ばれ、はしごの上には半鐘(はんしょう)と呼ばれる鐘があって、火事になるとこれを鳴らして知らせました。
お城や武士の家を火事から守る大名火消に加え、町人のための消防組織であった町火消は、64組ありました。当時の若者にとり、その一員になることは男らしくかっこいいことだったようです。
江戸の町には全国から木綿、麻布、紙、木材、油、米、塩、醤油などの商品が集まり、商店や問屋が大変な賑わいを見せていました。
一般の人が住んでいた家。
左側にあるのは井戸。
江戸時代のおそば屋さん
髪結い床(かみゆいどこ:今の床屋)
江戸の男たちはヘアスタイルにも気をつかっていました。
芝居小屋
歌舞伎やお芝居が行われていたところです。
今は中では時代劇や忍者のショーが行われています。
*タイムスリップしてしまったついでにあなたも変身してみませんか?
実際に女優さんたちをメイクするスタッフがお姫様や町娘などに変身させてくれます。

*殺陣(たて)と呼ばれる刀を使ったアクションシーンの形を教えてくれる講座もあります。
江戸時代の生活様式や映画文化、歴史を学べる資料館もあります。
「百聞は一見に如かず(ひゃくぶんはいっけんにしかず)」
:何度も聞くより、一度実際に自分の目で見る方がまさる。(広辞苑より)
日本の映画や歴史ファンの皆さんは是非一度体験してみてください。
さあ、タイムマシーンに乗って江戸の町へ出発!
★映画村では、他にもライダーや戦隊もののショーも行われていますよ!
■ウェブサイト:
写真提供:東映太秦映画村、長崎大学付属図書館
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